千年祀り唄
―宿儺編―


2 半音(前編)


西の空が赤く染まった。いつもと違う妖しい色の空だった。歩道に舞う枯れ葉が金色に輝き、幾重にも重なってモザイクのような影を落とした。

かつては東京のベッドタウンだったこの街も、今ではすっかり寂れてしまっている。人気のない団地や商店街には、活気がなかった。それどころか、建物の多くは見捨てられ、荒れ放題になっていた。
若者の多くはこの街を捨て、都会へと出て行った。車道を通る車のスピードはいつも少し制限速度をオーバーしていた。それでも、人口の少ないこの辺りではほとんど事故が起きることはなかった。

「こんな田舎、早く出て行きたいな」
塾帰りの女子中学生が二人、お喋りしながら歩道を歩いていた。
「ほんと。こんな陰気なとこ、一刻も早く出て行きたいよ」
もう一人の少女も応えた。

「ねえ、聞いた? 三角公園に出る幽霊の話」
「うん、夜中に毛糸の帽子を被った男の子が、遊具に乗ってキーキーって音をさせてたってあれでしょう?」
「そうそう。その子どもがどう見ても2つか3つくらいにしか見えないんだって……。そんな子どもが夜中に一人でいるなんて変じゃない?」
鞄に付いていたお守りの鈴が微かに鳴った。

「その続き聞いた?」
「続きってどんな?」
問われた少女は神妙な顔で頷くと、声を潜めて言った。
「それでね、その子どもに話し掛けるとたちまち鬼に変わってとり殺されてしまうんだって……」
二人は怯えたようにきゃあっと揃って悲鳴を上げた。

「いやだ。怖いよ。それって丁度この辺りじゃない?」
「そうそう。そこの団地の奥」
「ここってもう何年も誰も住んでないんでしょ?」
「取り壊されるって決まってるからね。何しろ昔の団地だし、公園も危ないから立ち入り禁止になってるって婆ちゃんが言ってたよ」

その時、二人の後ろからひゅーっと生暖かい風が吹いて来た。それから、かさッと枯れ葉を踏む音が響く。
「きゃ」
二人は悲鳴を上げると、そこから逃げ出すように駆けて行った。


「二つと二つ……」
遠ざかる少女達の後ろ姿を見つめる二つの黒い目。それは小さな男の子だった。頭に黄色と緑の模様の付いた毛糸の帽子を被り、入り組んだ垣根の隙間から、じっと少女達を見つめている。
「でも、あれは、ぼくが探している音じゃない」
彼はフーッと息を掛けて持っていた枯れ葉を飛ばした。彼は探していたのだ。闇に沈んだ永遠の方割れを……。

子どもは団地の敷地の境にある柵に捕まって空を見上げた。血のように赤い雲が垂れこめている。そして、その空の彼方へ烏の集団が飛んで行く……。

――ああ、また誰か人が死ぬ

何の感傷もなく、心で呟く。

チリリ……。
風が音を拾って来た。耳の奥で小さな鈴の音が聞こえた。さっき通り過ぎた少女の鞄に付いていた鈴だ。それが道路に落ちた音だった。
彼はひょいと柵を跳び越えて歩道に立った。

長い黒髪に毛糸の帽子。
しかし、そこに立つ彼は小さな男の子ではなかった。見た目には少女達と同じ中学生くらいに見えた。彼は彼女達が駆け去った方へ向かって走った。少年の足に踏まれる度、枯れ葉がさくさくと軽い音を奏でた。

「これか」
歩道に落ちていた赤いお守り。そこには小さな鈴とフェルトのマスコットが付いていた。


夜。深い団地の森に響く音……。
ゆったりと、やんわりと、
欠けた月の隙間から
静かな吐息を忍ばせて
揺れる動物の影……。
行きつ、戻りつ、キィ……と鳴く。

「和音」
女が呼んだ。
「ここだよ」
キリンの形をした遊具の背に乗っていた子どもが呼ぶ。その子はまだほんの2つか3つにしか見えなかった。そして、その頭には毛糸の帽子を被っていた。右手はしっかりとキリンの首から突き出た持ち手を握り、左手には鈴の付いた赤いお守りを持っていた。

「ごめんなさい。遅くなって……」
「いいの。きょうはさみしくなかったから……」
子どもがじっと左手を見つめる。
「そのお守りをどうしたの?」
「ひろったんだよ、ママ」
和音がさっと母の方へ両手を突き出したので、彼女は当然のように小さなその子を抱きあげた。
「まあ、体がこんなに冷たくなって……。ママが温めてあげましょうね」
そうして彼女は息子の背中を手のひらで撫でた。和音は幸せそうに母の胸に顔を寄せると耳を彼女の心臓に当てた。いつもと変わらない平穏な音……。やさしさと安定と心地良さを齎す、たった一つの子守唄……。

「ママ、だいすき! ずっとこうしていて」
子どもが言った。
「ええ」
母が頷く。
「ずっといつまでもこうしていて……」
「いつまでもずっとあなたの側にいるわ」

母は夜の店で働いていた。それで和音はいつも一人でこの公園で待っていたのだ。次の日も、次の次の日も……。

(あの子は、今日も通らない)

もとは花壇だった茂みの中で、和音は赤いお守りを見つめた。もう一度会えたら、返そうと思っていた。
(早く来ればいいのに……。ぼくには君の音がわかるから……)
闇の中。空には塵のように小さな星が幾つか見えた。
「ママ……」
母の帰りが遅いのはいつものことだった。しかし、今夜はやけにその母が恋しい。和音は、冷たい遊具の長い首を撫でた。

彼は母に働かなくていいと言った。しかし彼女は駄目だと言う。

――和音にピアノを買ってあげたいの

昔、音楽の先生が、和音にはピアノの才能があると言ってくれた。そして、母は無理をしてそれを買ってくれた。しかし、火事が起こり、そのピアノは燃えてしまった。だから、彼女はもう一度、息子にそれを与えてやりたいと思っているのだ。

――ぼくならいいんだよ。だってどこにだって音楽はあるもの。ぼくにはちゃんと聞こえてるんだ。それに、ピアノが弾きたくなったら、ホールや学校で借りればいいんだ

和音はそう言ったが、母は聞き入れなかった。多分、あの時のことの責任を感じているのだと彼は思った。だからもう、それ以上何も言わず、黙って母の帰りを待つことにしたのだ。

その時、不意に道路の方から誰かが近づいて来た。
(誰だろう? 知らない音だ)
それは中年の男だった。男は大声で歌い、乱れた鼓動と異臭を纏っていた。
(酔っ払いだ)
本能的に嫌悪感を抱いた。和音は急いでそこから離れようとした。しかし、彼の足はうまく動いてくれなかった。細く華奢な足は彼の体重を支えるには未熟だった。物に捕まるか、誰かに抱きあげてもらうかしなければ自力で立つこともできない。移動するには地べたを這うか、それとも……。彼がそう思案しているうちに男はずかずかと団地の敷地に入って来た。

そして、太い松の木に向けて放尿し、咥えていた火の付いた煙草を投げ捨てた。
「きゃ!」
茂みの中から甲高い子どもの声がした。男は急いでズボンのファスナーを上げると茂みを見た。
「誰だあ? そんなとこにいるのは」
ぶつぶつ言いながら男が近づく。
「あついよぉ」
小さな子どもが頭を抱えて泣き叫んでいる。その子が被っていた毛糸の帽子に煙草の火が引火したのだ。それはたちまち燃え広がり、帽子のうしろから炎が上がっている。

「脱げ! 早くその帽子を取るんだ」
驚いた男が叫ぶ。しかし、子どもは地面に転がってもがいているだけだ。子どもの体は小さかった。どう見ても2つか3つ。そして、その足は細かった。
「うえーん! あついよぉ!」
男は子どもの帽子を脱がせて投げ捨てた。
「おい……」
しばしの間、子どもはうつ伏せて動かなかった。が、不意にその顔を上げて男を見た。

「おまえ……」
その目は怒りと憎悪に満ちていた。が、それは本来あるべき子どもの顔ではなかった。帽子の下に隠されたもう一つの顔……。恐ろしく歪んだ鬼の顔が焦げた髪の下から睨んでいた。その顔が夜気の中にくっきりと浮かび上がる。

「ば、化け物!」
男は慌ててそこから逃げ出そうとし、足を取られて転んだ。それでも逃げようと手足をばたつかせる。何処かで鳴く梟の声……。秋の祭りのお囃子が、男の周囲を駆け巡った。
「ゆ、許してくれ。悪気じゃなかったんだ。本当だ。まさかあんなところに子どもがいるなんて……」
アスファルトの上で燃える帽子。それはまるで火の玉のようにめらめらと歪んだ音を立てた。子どもは微笑を浮かべ、ずるずると地面を這って男の方へ近づいて来る。
「く、来るな! 化け物!」
男は喚き散らすと子どもに向かって石を投げた。頭上で烏が何羽も羽ばたいている。

――許さない!

子どもは更にずるずると這った。風に靡いて頬にかかる髪がちりちりに燃えていやなにおいがした。

「ゆるさない!」
瞬間。子どもの姿が消えて、闇の中に赤い炎が燃え上がった。
「鬼火だ!」
それが宙に浮かんでけたけたと笑っているのだ。しかし、よく見ると、それは鬼火ではなく、赤い炎に包まれたあの帽子だった。

「外道め!」
そこに歩んで来た14、5才の少年がそれを素手で掴んでぶら下げた。
「ノイズは要らない」
長い漆黒の髪が風に舞う。
「よ、寄るな! た、頼むから来ないでくれ……」
男が惨めに叫ぶ。

「消えろ!」

少年が持っていた炎の塊を投げた。それが男の頭にすっぽりとかぶさる。
「ぎゃあ……!」
男は狂ったように暴れ、帽子を取ろうと必死にもがいた。が、それはぴたりと貼り付いて、男の頭から離れない。
「さあ、踊れ! もっと叫べ! おまえの生涯で一番の音楽にしてやるぜ!」

それからどれくらいの時間が過ぎたろうか。
ようやく小さな公園に静寂が戻って来た。
闇の空には、肉眼で確認できる星が三つ。
彼はキリンの背中に腰を下ろすと、手の中の赤いお守りを見つめた。

松の下には黒く焼けた物の影……。
不快な音はもう聞こえない。
(ぼくの周囲でノイズを立てることは許さない)

「和音!」
半分焼けてちりちりになっている息子の髪を見て母は悲鳴を上げた。
「おお。何てことでしょう。熱かったでしょう? 痛かったでしょう? かわいそうに……」
母は子どもを抱き締めて泣いた。
「だいじょうぶ。でも、ぼうしがやけてしまったの」
「いいわ。明日、新しいのを買ってあげましょうね」


翌日。男の焼死体が発見され、団地の周囲は大騒ぎだった。警察や野次馬が大勢やって来て騒ぎ立てた。
和音はそんな喧騒を避けて、少し離れた建設現場に来ていた。

そこはもう何年も前から工事をしているのに、一向に出来上がらない文化会館だった。一説によると街の資金不足から工事が滞っているという。ここ数カ月、機材は放棄されたまま、誰も近づく物はいなかった。

完成すればコンサートホールもできる筈だった。和音はそれが早く出来上がればいいと思っていた。そこでなら、存分にピアノが弾けるだろうから……。しかし、それは今となっては困難となった。もしかすると、このまま頓挫して計画事態がなくなってしまうかもしれなかった。少年の彼はそんな半端な建物の裏側に回った。

耳慣れない音がした。
「何だろう?」
彼は音の方へ近づいた。それを吹いていたのは一人の少女だった。
(あの子だ)
一瞬、和音の胸が高鳴った。
(あの子の鼓動が聞こえる)
音は彼女がその口に当てて鳴らしていた楽器だった。不意に曲が途切れて、彼女がこちらを見た。少年は真新しい赤い毛糸の帽子を被っていた。

「誰?」
少女が訊いた。
「ぼくは和音。君は?」
「亜澄(あずみ)」
二人の間を吹き抜ける風……。鼓動が微かに重なった。

「きれいな音だね。それは何?」
和音が訊いた。
「ハーモニカ」
「少女が応える。
「ぼくも鳴らしてみたい……」
いつの間にか少女の隣に来ていた少年が言った。背は彼女と同じくらい。和音は顔立ちのいい、優しい雰囲気の少年だった。
「いいけど……」
躊躇いがちに言う少女の手からそれを取ると、和音は自分の唇に当てた。

そこから流れ出るメロディーは、これまで聞いたことのない不思議な魅力に溢れていた。聞かずにはいられない。見詰めずにはいられない。彼を……。彼の奏でる音楽を……。鳥も虫も、建物も、そこに置き去りにされた何もかもが、じっと彼の吹くハーモニカの音に耳を傾けていた。

少女の鼓動がトクントクンと高鳴った。
和音の鼓動も早くなる。

「美しい……」
少年が唇からハーモニカを離して言った。
「本当にきれい……。何の曲?」
「君の鼓動……」
「うそつき!」
亜澄が言った。和音はその意味がわからず、じっと少女の顔を見つめた。
「はじめてって言ったくせに……」
「はじめてだよ」
少年の言葉に彼女はますます混乱した。しかし、何故彼女の鼓動がそんなにも高鳴っているのか和音には理解できなかった。

「もしかして、君は怒ってるの?」
「ええ。怒ってるわ。だって、あんた、うそつきだもん」
「どうして?」
「初めて吹いたのに、こんなに上手に吹けるはずないもん。あんた、わたしをからかったんでしょ?」
「でも、本当にはじめてなんだよ」
和音はもう一度ハーモニカを唇に当てた。
「しかもそれ、間接キスだし……」
亜澄が慌てて言った。

(間接キス……)
それは、甘く切ない響きだった。彼はそのイメージで曲を吹いた。淡いオレンジの夕闇に染まる街……。彼女の頬も同じ色に染まった。その黄金色が銀のハーモニカに映り込み、淡い慕情と憧れに似た純粋な音を作り上げた。

「素敵だ」
演奏が終わった時、和音の頬も染まっていた。
「本当に、すごくいい音……」
夕闇に透かして彼は亜澄の鼓動を聞いていた。

「……それ、気に入ったんなら、あんたにあげる」
突然、彼女がそう言った。
「でも……」
「いいの! あげる」
彼女はそう言うと彼から離れようとした。鼓動がこれ以上ないほど高鳴っていた。
「わたし、もう行かなくちゃ……」
駆け出そうとする彼女の手首を掴んで少年が止めた。
「待って」
一瞬だけ静止した鼓動。見詰め合う瞳と瞳。僅かにずれて動き出すメロディー……。
「これを……」
和音が出したのは、赤いお守りだった。

「わたしのお守り……。これをどうしてあんたが持ってるの?」
「道に落ちてた。だから返そうと思って……」
「だけど、どうしてわたしのだってわかったの?」
「この鈴が君の鼓動を覚えてたから……」
少年はお守りを軽く振って鈴を鳴らすと彼女に渡した。
「あんたの言ってることわかんない。でも、ありがとう。これ、わたしにとってはすごく大事なお守りなんだ」
「大事?」
「うん。これね、中学に入学した時、お婆ちゃんにもらったの。でも、そのお婆ちゃんはもう2年前に死んじゃった。だから、これはお婆ちゃんの形見なんだよ」
少女の胸が微かに震えた。
「そう……」
山の向こうに夕日が沈み、最後の一欠片のオレンジが建物に反射していた。

「ねえ、さっき半音出していたでしょう? あれってどうやったの?」
手の中のお守りをじっと見つめていた亜澄が訊いた。
「半音?」
「うん。だって、このハーモニカにはない音でしょ? なのにどうして吹けるの? 何か特別なテクニックでもあるのかと思って……」
「何も……。ぼくはただそのままを吹いただけ……。ぼくと君と半分ずつのメロディーを……」
「半分ずつ? それじゃ、わたし達って、どっちがシャープでフラットなの? いつもナチュラルにはなりきれなくて……。本当のわたしを探してるんだ。いつだって……」
「本当の?」
怪訝な顔で少年は少女を見つめる。
「あ、何でもない。ごめんね。突然変なこと言って……。気にしないで」
少女の頬に一筋の悲しみが透けて見えた。

「また会える?」
和音が訊いた。
「うん。そしたら、またあんたのハーモニカを聞かせてくれる?」
「いいよ。また明日、この場所で待ってる」
和音が言った。
「それじゃまた明日ね。今日はありがとう」
そう言うと少女はチリンと鈴を響かせて和音の前から駆け去った。外灯の明かりに群がって小さな虫達が飛びまわる。
「ぼくももう帰らなくちゃ……」


「和音?」
キリンの首にもたれて眠っていた彼を母が呼んだ。その手にしっかりと握られていたハーモニカを見て母が訊いた。
「それをどうしたの?」
「もらったんだよ、ママ。おんなのこに……。とってもいいこなの。おまもりをかえしてあげたら、すごくよろこんでくれたんだ」
「それでハーモニカをもらったの?」
「ううん。そうじゃないけど……。あのこは、ぼくのおとをほめてくれたの。ぼくたちはおなじメロディーをかなでたんだよ。ステキだった……」
和音はうっとりとした目で遠い空を見つめた。
「そう。それはよかったわね」
「うん」
和音はもらったハーモニカを大事そうに抱えると母にもたれてまた眠った。